Calendar
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK
CATEGORIES
ARCHIVES
PROFILE
OTHERS

L i v i n i t y

<living x unity>
<< 分裂と統合 | main | 赤塚不二夫ふたたび(4) >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
赤塚不二夫ふたたび(3)


ふたたび。

”蕩尽伝説”に5回にわけてアップされたマンガ論の充実にインスパイアされ、私なりに赤塚不二夫論のまとめというかたちで、このブログで年頭からだらだらと続けてきたマンガ論のひと区切りとしたい。

さて、たしかに手塚治虫という、天才を通りこして「神様」がいなければ、赤塚不二夫はありえなかった。のみならず、トキワ荘の巨匠達、藤子不二雄、石森(石ノ森)章太郎、松本零士、、治虫’s チルドレンが切り開いた現代マンガの可能性のそもそもがありえなかったということになるだろう。手塚治虫なしには「ドラえもん」も「宇宙戦艦ヤマト」もありえない。それは”父”セザンヌなしにマティスもピカソもモンドリアンもありえないのとちょうど一緒だと思う。

「赤塚不二夫120%」で、「トキワ荘」時代にたびたびそこを訪れてくれたという「神様」のことが回想されている。手塚治虫は海のものとも山のものともつかないトキワ荘のマンガ家の卵たちを「氏」づけで呼んでくれたというのだ。敬意を込めて「赤塚氏」と。これは”父”の証として実際凄い話ではないだろうか?

「君たちマンガ家になりたいの?」
と神様が聞く。
「ハイ、なりたいです」
神様曰く
「それなら一流の音楽を聴きなさい。一流の映画を観なさい。一流の芝居を観なさい。一流の本を読みなさい。」
最初はよく意味が解らなかったが、神様の言うことだから、皆その言葉を金科玉条として実行したのだという。

「音楽/映画/芝居/本」ほとんどその言葉に「マンガ」の本質が集約されているともいえてしまう。つまりまさに時間芸術の極意を掴めということであり、ストーリー展開の起伏、リズム(間)のとりかた、台詞回しの極意、そしてひいては人間性を学び、教養を積みなさい、と。後になってから、その意味がわかってきた、と赤塚不二夫は言う。

たとえば「レレレのおじさん」がそうだというのだ。引用してみよう。

「バカボンのパパが「行って来るのだ」って出かけると、レレレのおじさんが「おでかけですか?」って。これが間なんですね。すぐ隣りに行っちゃったら、つまんない。そういう間をとること、リズムを作ることも、手塚先生が「いい音楽聴けよ」とおっしゃってくださったおかげでわかるようになった。

これは単純な事を言っているようで、じつに深いものがあるとおもう。
続けて曰く、、

そういえば「ジャングル大帝」の冒頭のシーンって本当に音が聴こえてきたもの。ドンダダ、ドンダダって。あれ、すごかったなぁ。アフリカってどんなとこだかしらないんだよ。でも確かに音楽が聴こえてきた。あれをはじめて読んだときの感動は忘れられない。

実際本の中で、ギャグマンガの巨匠の、16歳でジョン・フォードの「駅馬車」を観て以来の映画マニアぶりが語られてもいる。ことにハリウッドのコメディ映画。そのテンポを日本の”ぬるい”マンガに導入することを考えついたのだという。
そして、ジャズ。貧しいなか食費を切りつめてコルトレーン、アート・ブレーキー、来日しだしたジャズの超大物のコンサートへ。そしてまた映画館へ。食器もろくに揃わないような貧困のなかで映画と音楽からいかにマンガの栄養を摂取したか、が、またあるいはチビ太やデカパンやダヨーンのおじさんといったキャラクターにいかにアメリカやイタリアの小説/文学の影響が反映しているかが語られてもいるのだった。その後のアドリブに満ちたギャグの炸裂というのには、そのままジャズのアドリブ演奏ということを重ねて想起せざるを得ない。

現代マンガの確立者、その”現代-モダン”の所以である。つまり20世紀前半の前衛芸術の革新の精髄を赤塚不二夫はハリウッド映画やモダンジャズや小説から摂取し、それを抽出した、と。それはもうまぎれもない事実なのだった。そこにだから20世紀前衛芸術の流れ、その特質のまごうことなき継承があることは明白なのだと言える。(実際、”ハタ坊走り”の参照元がジャコモ・バッラの絵そのものかどうかというのは、わからないにしても)

前世紀初頭ヨーロッパにおける、キュビズム、フォーヴィズムの先鞭以来の未来派、ロシアアヴァンギャルド、ダダ、シュルレアリスム、純粋抽象という、工業と複製技術の回転/プレスの轟音に裏付けられ支えられ、あるいはそれに抗す、映画、舞踏、詩(書物)、音楽、絵画、彫刻、オブジェ、絡まり合う怒濤の革新運動、「デザイン/編集」としての抽出運動、まさにその運動性においての、「スピードとダイナミズム」(未来派)そしてその運動の記述と切断、再統合つまり編集技法そして詩学としての「メタモルフォシス/ディペイズマン(コラージュ/モンタージュ)/オートマティスム」(ダダ・シュルレアリスム)。その大規模な頒布としてのハリウッド映画、ジャズ。そこに学んだ日本現代マンガの黎明。ジャパニーズ・モダン・アートという言葉をたてたときそのひとつのおおいなる側面である事はまちがいない。

いうなれば、たとえば未来派の美学やダダ・シュルレアリスムの詩学というのは、「複製技術時代」における「あたりまえ」の域をとっくの昔に通り越して、「高度情報化社会」においては煮詰まりすぎたスープのなかのまったく原型をとどめていない玉葱のようなもので、このへんで、たしかに「玉葱」に、その”高度情報化ゆえの不可視”に思い至ることは必要であり、意義深いことであると思われるのだった。



*
さて、赤塚マンガの特質として大胆極まりないデフォルメがある。デフォルメというのは無論西洋美術の概念であり、つまりはデッサンにおける対象の意図的な変形ということだが、そこに単純化、記号化(抽象化)という方向を孕みつつ20世紀絵画において非常に重要な概念となるも、マンガにおいてもひとつの、ことにキャラクター表現において要ともなるべきものだ。

デフォルメ自体はミケランジェロ-マニエリスムの昔から、あるいはマンテーニャの時代から、人体描写における動勢/捻れの強調、引き延ばしや逆に短縮として、遠近法においてのモデリングをめぐる重要問題としてあったわけだが、後期印象派、ゴッホ、セザンヌを経て、ピカソのアフリカ/イベリア彫刻からのインスピレーションによって描かれた「アヴィニヨンの娘たち」によって、(あるいはフォーヴの絵画の形態の単純化によって)、”デフォルメ”は決定的に現代的に重要な造形言語になる。

ようするにニャロメやベシ、その殆ど「ネコ」や「カエル」としての原型をとどめていないにも関わらず、ネコやカエルとして在る、そのデフォルメの凄まじさには当然、ミッキーマウス(ときどきそれが巨大鼠であることに思い至って、ぎょっとするのだ)やバックスバニー(巨大兎)のアメリカン・カートゥーンの影響が濃いと思われるのだが、それにしても赤塚マンガにおけるそのデフォルメの激しさはまさに「過激」であり、その形態的な還元性、つまり「円、三角、八の字型」といった平面的にあからさまな図形性、記号性ゆえ、その「トビかた」はディズニーキャラクター以上の域に達しているように思える。

日本現代にそこまでデフォルメを徹底的に追求した絵描きはそうそういるものではない。(実際、気の遠くなるような数の線を引かなければ、とてつもないデッサン力がなければ、あのような単純化には至れないのは絵描きの目(手)から見て明白である)

日本現代マンガ/赤塚マンガにおけるデフォルメ、一方でそこに北斎漫画や国芳戯画の系譜をみることもまた容易なことである。動物の擬人化ということでいえばそれこそ「鳥獣戯画」の昔からと言わねばならず、さしてそれはとくに日本の専売特許でもなんでもなく人類史的に普遍的に見られることであるのだからおくとして、今度は逆向きにデフォルメという「概念」なしにデフォルメを為してきた「非西欧美術」の西欧近代芸術にあたえた「無意識のアヴァンギャルド」という問題系をやはりどうしてもたてなければならないだろう。

またしかしながら、日本現代マンガの創成において「時間分割-コマ割りにおける映画/音楽の手法的な導入」とともに「デフォルメ」というのは決定的に切実な意識的課題だったのである。翻って19世紀-20世紀初頭にかけてのその西欧美術の「デフォルメ」の概念のその革新的なまさにデフォルメにおいて、じつは浮世絵/アフリカ彫刻が決定的な役割を果たしたこと、その交通/運動についても熟慮する必要があるだろう。
抽象表現主義-ミニマリズム以降、「デフォルメ」というのは一見してコンテンポラリーアートの文脈で、「絵画の終焉」ともに無意味化されるわけだが、---「デフォルメ」なんてもう意味ないですよ、ピカソの時代や日曜画家じゃ在るまいし、と来るなら---それは違うのではないかと。デフォルメ-メタモルフォーゼ-トランスフォメーションという一連の変容に関する語彙のその内実をいまこそ鋭く問うべきだと思う。

(つづく)

| 考え | 01:37 | comments(6) | trackbacks(2) |
スポンサーサイト
| - | 01:37 | - | - |
いや、長いコメントは大歓迎なのです。

たしかに非-商売=ロマン主義の部分は言い過ぎたかも知れません。
予断なしの日々胃に穴が開きそうにリアルなところなんで、つい過剰
に反応してしまったのかも。どう言ったらいいものか、、、

”ひじょーに、きびしーっ”

色彩に関して。
>(関西はかなりちがいます)
たしかに。大阪は色彩豊かですね。東京とちがって電車の中、うるさ
いし(笑)。
東京のモノトーン(地味好み)傾向はやはり江戸の奢侈禁止令の名残
なのか?と思ったりもしますが、、。地味において「粋」を競うとい
う。

>白と黒の対比とは存在と無の対比と言えなくはない。(金や地位が)
>有るか・無いかがもっぱら問われ、中間にある程度のちがいを認め
>ない社会では色彩感覚は育たないと思いますね。で、色彩の多元性
>を許容できない社会に自由もなければ生命もない、そう断言して多分
>まちがいないでしょう。

これはもうほんとに。勝ち組か、さもなくば負け組かって
、、、脳味噌に皺がないのか?ってことですよね。
セレブかさもなくばニートか(笑)ってのもあり、そうやって二極化
がここまで画定したひにゃ、色彩/トーンの逆襲が起こってくるでしょ
うね、これから。

ともあれマンガ論的に文化論的に、「痕跡」と「色」、
それから「記号性」の問題、、
このあたりのことに突っ込んでくのはかなり面白そうです。
| d | 2005/02/18 5:26 PM |
ま、あまりコメントが長くなってもどうか?と思うんですけど、
ひじょうに興味深い問題が次々に連打されているので、もう少し
感想を述べさせてください。

> というか、アメリカン・イメージの底流がヨーロッパにあること
> をしばし忘れすぎていたのかもしれない。それと同時にアメリカ
> ン・イメージというのには風土、先住民(ネイティヴ・アメリカ
> ン)とアフリカン・アメリカンにおける奴隷制の記憶、南米/カ
> リブ海からの流入、様々な移民の記憶が複雑に混淆している。

どうも私たち日本人は自分自身が有色人種のくせに(だからか?)
白人のアメリカしか知らない、あるいは知ろうとしない傾向がある
のではないでしょうか。しかし白いアメリカがあるように黒いアメ
リカもあって、じつはアメリカにはいろいろな色が満ちている。先
住民・奴隷制・移民による色つきのアメリカを見えなくさせてしま
う、単一主義的かつ原理主義的な白いアメリカに警戒せねばならな
いでしょう。

>「痕跡」というのは「プリンティング」とも重なり、現代文化の
> キーとして捉えられるとともに、かつ刺青、洞窟絵、ひいては
> DNAを連想させます。

いまさらデリダがうんぬんではなく、そうしたメタファーとしての
痕跡概念を拡張するとかなり面白そうです。私にとって、それはま
ず何よりも爆心地の蒸発した死体の痕跡です。その痕跡から戦後日
本は出発した。

> 考えるべきは商業における聖性のありかたなのではないか。

あらゆるものは商売であり、商品でしょう、資本主義の世界では。
ただその質が問題で、あまりに上っ面の商売が行き過ぎると客にま
で見放されるという顛末になる。そこらの商売と非−商売のあいだ
のバランス感覚が問題でしょうね。ま、いまの日本の現状で、はた
してバランス感覚に富んだ商売など可能か?という大疑問もありま
すけど。

私としては、バランスを失い、非−商売に陥り、身を持ち崩して滅
びて行くやつが好きですよ。芸術や過激な表現にはどうしてもそう
いう暗い傾きがある。そういう魔に取り憑かれないと最も遠いとこ
ろまでは行けない。これは必ずしもロマン主義ではない、と思いま
すけどね。

マンガはなぜ彩色されていないか、という問いはじつに面白い!
パソコンを使った彩色の試みはないわけではないけど、なんだか読
んでてうるさい感じがする。やはりマンガというジャンルは絵とい
うより記号ということなんでしょう。記号に着色は不要である、と。

さらに問題なのは日本社会における色彩の抑圧ですね。というか、
コレ、いまの東京が異常にひどい。どいつもこいつも黒や灰色の地
味な目立たない服ばかり着てる(関西はかなりちがいます)。

白と黒の対比とは存在と無の対比と言えなくはない。(金や地位が)
有るか・無いかがもっぱら問われ、中間にある程度のちがいを認め
ない社会では色彩感覚は育たないと思いますね。で、色彩の多元性
を許容できな社会に自由もなければ生命もない、そう断言して多分
まちがいないでしょう。

マンガに注目することで、日本社会の不可視のメカニズムが次々に
暴かれて行くようなコーフンを感じています。
| 蕩尽亭 | 2005/02/18 1:47 PM |
なにかと大雑把な問いかけに丁寧なお答えありがとうございます。

ヨーロッパにおける歴史/倫理に深く彩られたイマージュ、そこからの逃走としてのアメリカン・イメージと、その反動的な零度としてのミニマリズム。しかしまた逆にそこにネオコン的なというか原理主義的なイメージ(イマージュ)がまさに亡霊のように沁みだし、せり出してくる。
というか、アメリカン・イメージの底流がヨーロッパにあることをしばし忘れすぎていたのかもしれない。それと同時にアメリカン・イメージというのには風土、先住民(ネイティヴ・アメリカン)とアフリカン・アメリカンにおける奴隷制の記憶、南米/カリブ海からの流入、様々な移民の記憶が複雑に混淆している。
アメリカにおける奴隷制の歴史というのは、ヨーロッパを家出してきた我が儘なガキどものお守り/ベビーシッターの歴史だったように思えてしまう。
そのあたりを冷静に見つめる必要がありそうです。

「日本」というのは、その欧米のイマージュ/イメージに追随するが故、翻弄されるものとしてあり、歴史性があるようで、なく、ないようで、ある、という曖昧微妙極まる立場としてある。アメリカとは比べものにならない(本当なら年長者として振る舞えるはずの)歴史の厚みを持ちつつ、近現代の欧米追従においてのその当然の歴史の浅さ/拙さと「敗戦」ゆえに、年長者の資格を剥奪されている。老人にして幼児という状態。

いずれにせよ欧米的なイメージ/イマージュ論の彼方を見つめつつも、此方の、己の内側からリアリティ生成のその仕組みを取り出す必要があるのだけれど、それが非-言語主義の伝統ゆえなかなかうまくいかない。
結局そこにおけるマンガ/アニメ/フィギュアの表現という問題に収斂して行くのかなとも思います。

”痕跡”というのは「プリンティング」とも重なり、現代文化のキーとして捉えられるとともに、かつ刺青、洞窟絵、ひいてはDNAを連想させます。
竹橋の美術館のは未見ですが、現代を解きつつ装飾の欲動/人類「古層」へとつながって行く非常に有効な概念かもしれないという印象を持ちます。それがテクノシャーマニズムみたいなところにつながって行くとなると、往年の「細野/中沢」コンビを連想してしまうのですが、そういうのじゃないラインが個人的には好みです。もっとマッシヴでファンキーなやつ(って、好き勝手言ってますが、、)。

そして聖域なき聖性について。なににせよ秘教的、王国的な「結界」というのは必ずや「カルト」の問題につながって行く。20世紀はその失敗例に満ち満ちている。
場所なき場所というアクロバットが要請されるところだと思うのですが、しかし、「芸術」というものが、じつは都市-商業の発達において、画定されたものあることを思えば、たとえば、商業と関わるがために芸術が堕落するという考え方は、実際ナイーヴすぎるのかなとも思います。ティツィアーノにせよ、ルーベンスにせよ、レンブラントにせよ、宗達にせよ、光琳にせよ、みんな商売ばりばりだったわけですから、基本的に。そこから”ファイン”が練り出されていった。
だから芸術の理想=非商売というのは、じつは絵の具買うお金に全然不自由していなかったセザンヌ(遺産相続者)やゴッホ(弟に面倒見てもらっていた)の芸術家神話において生み出された大いなる誤解なんじゃないかという気すらする。
それは日本で言うと戦前の大正ロマン主義系列の超エリートの理想主義、戦後、50年代〜70年代までのとりあえず機能していた教養主義の聖域で垣間見えた幻影だったといったら言い過ぎでしょうか?それだって軍需景気/冷戦構造に支えられていたわけだし。
純粋=最初っから最後まで非-商売って、そんな虫のいい話はありえないと個人的には思ってます。本人はそのつもりでまわりが自腹切ってたりして。
考えるべきは商業における聖性のありかたなのではないか。

そんなこんなを考えてしまうのです。

| d | 2005/02/17 12:48 PM |
> 木に駆けのぼって自分で降りれなくなってる猫状態?なんですが。

いやあ、多分ものを考えるって、そういうことでしょうね。駆け上
がるだけなら勢いで出来るが、地面に降りてくるのがじつはいちば
んむずかしい。なかなかみごとな着地はできないもの。なにごとも
落とし所がむずかしい。

> 70年代を経て80年代以降の大衆状況を赤塚不二夫自身、こりゃ
> ひでーことになっちまったなと、と考えているフシが回顧録読ん
> でると節々に感じられるというのもあり、、。

やっぱり赤塚は母と戯れつつ、その向こうに社会という大人の男の
世界を睥睨してたんだと思いますよ。そこに彼のギャグの冴えとか、
緊張感が生まれた。そうした仮想敵みたいなものが70年代末から
80年代にかけ、ふにゃふにゃになってしまい、ギャグのつぶての
ぶつけどころがなくなってしまった、ということがあるのかも。

> けれども、動かない一点の絵画/彫刻におけるダイナミズム(多
> 次元的な豊饒)というのがたしかにあると思うのです。僕はいま
> だそこに強く惹かれる。抽象表現主義-ミニマリズムの「イリュー
> ジョンの零度」問題の解釈というのは非常に微妙でむずかしいも
> のになると思うのですが、それを「イマージュの零度」問題と言
> いかえることができるのだろうか?

まさしくおっしゃるとおりですね。イマージュの零度、ないし静止
するイマージュの問題は結局、哲学的にはイデアをどう考えるかと
いう問題になって行く。それは言い換えれば、ハイデガーや西田幾
多郎が思索したような超越論的な場所の問題です。これをあまりに
お手軽にやっつけているところがベルクソン哲学の弱点でしょう。
ま、運動を強調する以上、そうなるのは理論的にしかたない。ここ
らは後世の人間がちゃんと補う必要がある。

その意味で「痕跡」という概念はおもしろいなあ、と最近になって
思うようになりました。レヴィナスにおける痕跡は文字通り神の痕
跡ですけど、デリダはこれを巧みに脱色し、存在論的に中性なロジッ
クに鋳直している。痕跡とは生起するもののイメージなきイメージ
であり、生起における場所なき場所であり、差異を可能にする差異
化なのです。

> フランス的なイマージュの問題構築と、アメリカ的なイメージ/
> イリュージョンの問題構築は同じ事のようで、全然ちがうことの
> ような気がし、そのへん自分なりに実に非常に気になるところで
> もある。

マティスをベルクソン哲学で読み解くというのはきっと刺激的で面
白い仕事になると思います。>メモ、メモ。

フランス的なイマージュ(images)とアメリカ的なイメージ=イ
リュージョンのちがいという問題は、どんな作家を念頭に置くかで
ずいぶん変わってくるように思いますけど、ごくごく一般的に言っ
て、ヨーロッパの人間にとり、あらゆる画像は歴史性を帯びたもの
です。かれらは否応なく歴史を背負わざるを得ない。とりわけ中世
以来の宗教画のイコンの抑圧は私たちには想像もつかないほどの重
荷になっている。彼の地でイマージュはいまだキリストの亡霊に取
り憑かれているのです。

これにたいしアメリカ芸術におけるイメージはたちまちイリュージョ
ンになる。イメージはイリュージョンを引き起こす。この軽やかさ、
ないし軽薄さはヨーロッパではありえないものだ。アメリカには宗
教絵画の伝統の抑圧がない、というのがどうも大きいように思うん
ですけど、そこらは私ごときには何とも言えない。

> あるいはまた、これは自分なりの解釈ですが、「不動点定理」の
> 追究としてのセザンヌ以降/モダニズムという問題構成において、
> 不動点もまた動くということができる(なぜなら台風の目は無風
> だとしてもそれ自体移動しているから)。それは芸術という「仮
> 構」という問題にじかに関わる。あえて頑固に「聖域」を仮構す
> べきなのか?僕は、すべきだと思っているのですが、その仕方に
> もよる。

台風の目は内側においては無風でも、移動において環境のなかで激
しく動いている。そもそも私たちの眼球にしても絶え間なく動いて
いる。にもかかわらず、私たちは静止した画像というものを思念す
ることができる。運動の残像(ないし痕跡)を脳裏に思い浮かべる
ことができる。どうやらそこに人間という動物の本質があるらしい。
芸術はまさにそこに関わっている。

運動が生であり、その停止が死であるとすれば、芸術は死を仮構す
ることで生を豊饒にする仕組みだと言えなくはない。それは死の祝
祭だと言えなくはない。――そうバタイユは考えた。

動物は芸術を持たない。人間のみが芸術を持つ以上、それはつねに
人間知性により仮構されたもの以外ではない。仮構されるものはつ
ねに聖域により守られるほかはない。さもなければ生活に飲み込ま
れてしまう。そのかぎりで聖域の設定は不可避でしょう。

ところが現代の大衆消費社会において、そんな聖域はどこにもない。
あるいは、もはや聖域の役割をさっぱり果たさない間仕切りだけが
いたるところに残存している。しかし聖域なきところに聖なるもの
の表現もないはずで、かくして芸術家個々人がいかに自律的に聖域
を設けるかという問題が生じ、おそらくそれは一般的な解答の出な
い問題でしょう。>私自身は聖域なき聖性というものを想定できる
と思ってますけど。

たとえば、赤塚不二夫がどうしてああも熱心に回りに人を集めたか。
それはある意味で自分の回りに結界を作ろうとしていたように思え
る。笑いの王国を作ろうとしていたのではないか。

とまれ、必要であるにもかかわらず、もはや現実にはそこにないも
のが聖域だとしたら、現代の芸術家はたんに作品を創るばかりでな
く、作品が共有される聖域をも自ら創らねばならない。ただ、それ
は現状では極度にむずかしい。やむなく誰も彼もが商売に走らざる
を得ないというのが現実でしょう。
| 蕩尽亭 | 2005/02/16 12:49 PM |
やはり止まらないですね(笑)。

いや、僕もそれなりに忙しいっちゅうのに考えが止まらなくなってしまったんで、ちょっと木に駆けのぼって自分で降りれなくなってる猫状態?なんですが。

それはさておき、なんといっても蕩尽亭さんの「運動としての美」のひとことで、いろいろとコードが繋がったというのがあります。

>赤塚不二夫は20世紀前衛芸術のハイブリッドだった

それはマチガイないと思います。
ただそれが甚大な影響を与えた70年代を経て80年代以降の大衆状況を赤塚不二夫自身、こりゃひでーことになっちまったなと、と考えているフシが回顧録読んでると節々に感じられるというのもあり、、。

そのへん含め、ここのとこ一気に書いた文章を、手直ししつつあと2回くらいにわけておいおいとアップしようと思ってます。

それで、以下、ホントはそちらに出向いてコメントするべきところ、一息にこちらで失礼します。

今回、蕩尽亭さんがアップされた論考のなかの「イマージュ」の問題というのが、やはりというべきか、とても興味をそそります。

静止画としてのエイドス、動態としてのイマージュ。

けれども、動かない一点の絵画/彫刻におけるダイナミズム(多次元的な豊饒)というのがたしかにあると思うのです。僕はいまだそこに強く惹かれる。

抽象表現主義-ミニマリズムの「イリュージョンの零度」問題の解釈というのは非常に微妙でむずかしいものになると思うのですが、それを「イマージュの零度」問題と言いかえることができるのだろうか?

というのも、そういえば、なんですが、マティスはベルクソン哲学におおいに没頭していたという説があり、---僕はベルクソンについては蕩尽亭さんの要約においてしかわからないのですが---、フランス的なイマージュの問題構築と、アメリカ的なイメージ/イリュージョンの問題構築は同じ事のようで、全然ちがうことのような気がし、そのへん自分なりに実に非常に気になるところでもある。マティスの遺産相続問題の蒸し返しでもありますが、、。
そのあたりのこと、もしよろしければ、お考えをお聞かせねがえたら。

あるいはまた、これは自分なりの解釈ですが、「不動点定理」の追究としてのセザンヌ以降/モダニズムという問題構成において、不動点もまた動くということができる(なぜなら台風の目は無風だとしてもそれ自体移動しているから)。それは芸術という「仮構」という問題にじかに関わる。

あえて頑固に「聖域」を仮構すべきなのか?僕は、すべきだと思っているのですが、その仕方にもよる。そのあたりが非常に微妙で悩ましいところです。


| d | 2005/02/16 1:55 AM |
赤塚不二夫は20世紀前衛芸術のハイブリッドだった、
という結論で良さそうですね。TBしときました。ウチ
でもしばらく現代芸術論を続けようかと思ってます。
| 蕩尽亭 | 2005/02/15 1:45 PM |









http://livinity.jugem.jp/trackback/96
『鳥獣人物戯画巻』を覗き見る
 ひょんなことで「鳥獣戯画」のことが話題の俎上に上った。  鳥羽僧正覚猷(とばそ
| 壺中水明庵 | 2008/05/30 10:56 AM |
マンガの逆襲
先日来のdさんとの話のつづきである。これも何かの縁なので、し ばしウチでも現代芸術の話題をつづけようかと思っている。
| 蕩尽伝説 | 2005/02/15 1:33 PM |