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赤塚不二夫ふたたび(5)


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前回の「現代マンガにおけるマシニック」の話題に繋がるところでもあるが、赤塚マンガの伝説において、その優秀なアシスタント/ブレーンの存在はつとに有名であるだろう。すなわち長谷邦夫、古谷三敏。私もそのあたりマニアックに通暁しているわけではなく、古谷三敏といえば「ダメおやじ」の大ヒットというわけで、子供の頃、ほとんどトラウマとして作用するほどのその家庭内陰惨劇---「バカボン」とは一見してまるきり対照的な「オニババ=母」の支配する家庭においての、このうえもなく卑屈なオヤジ=父の駄目ぶりの物語---にハマったというくらいなのだが(精神分析的に言うなら「バカボン」は「ダメおやじ」とセットで語られるべきなのかとも、ふと思ったりもする)、さておき、ことに優秀なアシスタント/ブレーンの存在ぬきに赤塚マンガは考えられないという側面はたしかに存在する。回顧録「120%」に、そのアシスタント/ブレーンにまつわる逸話もいろいろあって興味深い。なんといっても、実作業はあらかた弟子に任せ、赤塚本人はギャグのネタを仕入れに夜な夜な飲みに行くというところ、アルコール依存のエクスキューズかとも思われる微妙なところでもあるのだが、ただマシニックな回転に飲まれていても創造は能わないのであり、いかに遊ぶか、遊べるか、というのが、”クリエイター”の命運を左右しているというのはたしかだろう。しかしながら、ギャグの天才は重度のアルコール依存に溺れていくのであるが、、。




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反面、社会的/歴史的な次元の問題として考察するに、近代化(合理化)に要請されつつも、伝統的な工房徒弟制度、分業ノウハウの洗練におけるその長い職人芸能世界の伝統の蓄積と、西欧歴史文脈における近代芸術の個人/主体表現の概念の接続にあたっての概念構築整理が、そこで行われなかったが故に「芸術」はマンガを、近年欧米での評価が定まるまで、つまはじきにしたままだったのだと言えなくない。長い時間をかけて醸成されたアジア的伝統(大和的伝統)と、明治以来/戦後におけるその何十倍速ともいえる急激な欧化にさいして、すっとばされてきた(いる)物事という問題。

それゆえ、欧米モダニズムの「行き詰まり/行き止まり」が囁かれ、やがて声高に叫ばれる中で、ポストモダニズムの要諦たる非-個人/脱主体的表現がもてはやされるにつれ、ようするにジャパン、クール、MANGAスーパークール!、キティちゃんてば超最高!!てなことになってきたとき、にもかかわらず、グローバルな持ち上げられ方に反して、ローカルにはマンガは「芸術」の語にひどく収まりが悪い。美術館でマンガを展示すればいいという問題でもなさそうなのだ。

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”ART”と”芸術”と”アート”を巡っての異様にしちめんどくさい齟齬と捻れという話でもあるが、だいたいにおいて国内的に言うなら、要は「サブカル」というのは「オタク」にとってのハイカルチャー(上位文化)であり、いわんや「芸術」をや(ゲイジュツ?なにそれ?)、というわけで、ART/アートの文脈でヴェネチア・ビエンナーレにおいてまで華々しく取りあげられ評価されているMANGA/OTAKUの内輪(ローカル)での評価は実に「キモヲタ」であるという途方もないギャップがある。この評価における外(グローバル)と内輪(ローカル)の甚だしい落差の問題、じつにサブカルチャーですらないマンガ。

この事態はおよそ150年前、浮世絵が瀬戸物の包装紙として(つまりどーでもいいものとして)海を渡り、やがて好事家の目に留まって美術品として扱われるも、それがマネを筆頭とする印象派の画家達(厳密に言うとマネは印象派の画家ではないが)の強力なインスピレーション源となり、絵画の革命(ひいてはモダニズム)の起爆剤となった経緯と瓜二つだ。あまりにもそっくりなので不安になるほどに。

だいたいにおいて、欧米文化圏においては、日本の高尚知識人が、自国の欧化の達成として感心して欲しいところに限ってミゴトに素通りされ、一番感心してほしくないところに限って、大々的に持ち上げられるという傾向がある。
浮世絵とはまさに当時のマンガである。春画との絡みもあり、近代国家の体制側としては、そんなものはできれば抹殺したい「恥」の部分であった。それが印象派/後期印象派にとって、脱神話的な主題構成において、構図/色面構成の自在さにおいて、絵画の平面性の自覚の促しにおいて、とんでもなく斬新な絵画作法として熱狂的な支持を得る。ムッシュー・モネやムッシュー・ゴッホが、歌麿や国芳描く”キャラクター”に「萌え」たかどうかはわからないが、パリの浮世絵熱(ジャポネズリー)が凄まじいものであったことは周知の事実である。





一方、明治日本の洋画家たちは、まさに印象派が否定したサロン・アカデミー系の画家たちに学んで行く。つまりそのことは異文化の出会いにおいて、相互に学ぶべき課題が反転していたということなのか、それとも日本の側は、文化的な意義においては、そのカードゲームにおいて役にも立たない「ババ」をひいたにすぎないということなのか、見解が分かれるところだろう。

異文化の出会い、そのカルチャーショックにおいては、エキゾティズム、オリエンタリズムの問題がつねに絡んでくる。ローカルな観点から見れば、当たり前すぎて、そんなもののどこが面白いのか?というようなものが、異文化の眼をもってすると、とてつもないアヴァンギャルドな表現に映る(つまり異化作用によって)。
エキゾティズム/オリエンタリズムには、ロマン主義、さらにいえば「性」が透けているとも言える。つまり自国文化の煮詰まり/欲求不満に対し、その一切を解消してくれる、文明に冒されていない野性においての、魔法のようなテクニックを期待するという。すくなくともフランスの側から行くと、浮世絵とはそういうものであった可能性もある。一方日本の側も「西洋」の圧倒的な実在感を誇る量感、肉感に度肝をぬかれ、とてつもない欲望を感じ、ひたすらに追い求めていったとも言える。

「美術」の名において、明治の性急な欧化(つまり西洋画へのひれ伏し)に危機感を感じた岡倉天心/フェノロサによって、「日本画」なるものが生まれるのだが(浮世絵は当初そこではまったく考慮に入れられていなかった)、「洋画/日本画」、新しい造語としての「芸術/美術」、そこにおける「絵画/彫刻/建築/工芸」のヒエラルキーの問題と、今日「芸術/ART」に跨る「工芸/芸能」を交えた「マンガ/MANGA」の位置づけの問題というのは、実際、「判断停止」しないかぎりは、あっさりと片づくわけもない、非常にこみ入った問題群を形成している。いわば日本熱をひとつのファクターとして20世紀を席巻した欧米モダニズムの行方と、日本におけるそのモダニズムの影響とその後という問題、それを解くには実際、深く、多角的な視点が必要なのだ。あるいは、言語の定義をぎりぎりまで問い詰めつつ、全ての分別を反古にして行くような両義性が。(片方だけでは駄目なのだ)

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「サブカル」と「オタク」の第三者的には奇妙にして当事者同士においては厳格厳密極まりない分別はおくとしても--日本の「サブカルチャー(サブカル+オタク)」は、内実的に、経済効果的に「ゲージツ」を凌駕しつつも、自らを画定できずにきた。
その要因として、20世紀の前衛芸術の意義と理路、あるいは19世紀末ヨーロッパにおける新古典主義の敗退とパラダイムの転換の意味への理解が日本社会のコンセンサスとして全くと言っていいほどに成立していないこと(学校教育現場に顕著である)、またあるいは敗退ゆえ底流として滔々と流れるベーシックとしての古典主義/キリスト教の伝統、ヨーロッパにおける職人伝統の途方もない厚み(と日本職人伝統との親和)という諸事/西欧芸術のスピリチュアリティ、土台に対して、アレルギー的に「反知/アンチ/カマトト」してきたがために。あるいは「サブカル」と「オタク」に分離してしまっているがゆえに。

もちろん”ゲージツ”の側の途轍もない鈍感ぶりという要因もあるにせよ、権威を小馬鹿にしつつ依存的(すねかじり)である---サブカルチャーには本来的にそういう面がある---日本におけるサブカル流儀の「芸術」との距離を見失いつづけてきた「内向性」という問題は冷静に見据えなくてはならないし(これも自分に対しての言葉なのだが)、それだから宮崎駿(個人的な趣味としては苦手なのだが/絵が趣味でない)のような冷徹なディレクター/アーティスト、そのブレーン/チームの功績は計り知れないと言うことになるのだろう。

往年の赤塚マンガと、現在のコミック/アニメ/フィギュアすなわち「オタク文化」とのつながりというのは、よくわからないところがある。私のようないちおう非オタク(ニュートラルな意味で)から見て、「芸術」の観点からいけば、赤塚マンガはわかりやすいのだが、逆に当の「オタク」における、頼むからコミック/アニメ/フィギュア/ゲームを芸術/アートのコンテクストと絡めないでくれ、という悲痛な叫びがあるだろう。「内向き」だからこその「オタク」である、と。「真正オタクvs村上隆」的とでもいえそうな問題。

やはりそのあたりのことは精神分析的な問題として見えて来るところなのだった。父の不在(母子癒着)の桃源郷へのふいの父の帰還、父と母子との再会、、それこそが21世紀初頭における切実な精神分析的-フロイト的問題であるとも言えそうな気がする。

と同時に、いわゆるひとつの「アキバ系」というか、コミック/アニメ/フィギュア/ゲームの文化圏においては、「古層」への再帰、あるいは「古層」の保守ということが絡んでくると思う。昨年、興福寺国宝展に行き、痛切に感じたのだが、そこに展示されていた高さ40センチにも満たない「四天王」の彫像には少なからず、ぎょっとした。その13世紀中世鎌倉期に造られた木造彩色の精緻極まりない鎧/装身具を纏った彫像ときたら、まるきり「フィギュア」そのものだった。つまり四天王=”機動戦士”として。



つづく(次回完結予定)
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