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段ボール文化論/ポップは急に止まれない


よく段ボールを利用する。近所のスーパーの使用済み段ボールコーナーへ行き、一声かけて物色し、用途に応じて適当なのをもらってくる。その用途としては、荷造りだとか、棚のブックエンドがわりに、項目種類別に作品ファイルや本の類を入れたりとか、道具、材料入れにしたり、いろいろ。
画像は、昼間もらってきた段ボールの側面をスキャンしたものなんだけど、愛くるしいと思いませんか?・・・・
・・・・ともかくまあ、なんといっても、ワタシ的にはこういう図柄、スクリーンプリントが堪らないわけで、はっきり言って段ボールは「洋モノ」が楽しい。だってやっぱり、ショージキ国産モノの、ほうれん草とか、もやしとか、カルビーポテトチップスとか、アクエリアスの段ボールは、見ててキモチよくない。紙質も段ボールのくせに神経質につるつるしてて、つくりもきっちり律儀なんだけど、端的にデザインが・・・・。どうせなら無地にしてけれ(無理)。
でも、例えばもし「JA青森リンゴ」の段ボールをかっちょよくデザインしろって言われたら、相当悩むだろうなあ。よしんば表面的にかっこよくできたところで、その「かっこよさ」がかえってださい、ということにもなりかねず、いいんだよ、そのままで、ありのままが一番ということになってしまいそうだ。だから、いいのだ、国産のフツーの段ボールのデザインはかっこよくなんかならなくたって。ごく一部のすれっからしの段ボールマニアのために、ほうれん草やしいたけの段ボールがいちいち見た目グーである必要はない、と。
日本の段ボールのアカ抜けなさ、この「和」の湿り気が堪らないという捻れきった「段ボールおたく」もいるかもしれないが、それはさておき、しょせん「ポップ(アート)」を経由した、洋モノ段ボールへの偏愛の視線というは、逆オリエンタリズムの賜物である。この明快なつきぬけたデザイン、雑なつくりと紙質がたまらない(スリスリ)、というような、これまたじつに「ヘンタイ」的な嗜好をもって、ニッポンの段ボール業界および段ボール印刷業界に通用させようと言うのは無理がある。そればかりか話は日本の企業体質、経営理念にまで及んでくることなので、思わず部屋に飾って眺めていたいような、床に転がしといてサマになるような、ナイスな段ボールをさらっと作りたいと思ったら、インディペンデントでやるしかないだろう。その中身の製品作りから、いや、それこそ思想構築から着手しないと。
で、たとえば、この方の場合、自分のブランドの段ボールを本当にさらっと作ってしまった。wind chime booksという自主出版レーベルを立ち上げた方なのだけど、近所にあるアトリエにいつか遊びいったら、玄関先にそのwind chime 印の段ボールが山積みに積んであったので、かっこいいですねこの段ボールと言ったところ、本の在庫管理のためにオリジナルデザインの段ボールを作ったのだという。
私の場合、「おしゃれ雑貨/カフェ系」的な趣味は、あんまりないので、というか、そういうのをとくに追究してるわけではないので、アレなんだけど、段ボールデザインというのは、けっこう面白そうだと思う。そういえば、80年代に一世を風靡した日比野克彦氏のオブジェ作品は段ボールが素材だった。あれっていうのは、耐久性的にはどうなんだろう?いかにもすぐ壊れそうなかんじだったけど・・・。いまは、段ボールを作品素材として使うより、それ自体をデザインする方があきらかにクールだ。そこにはアートという気負いすら邪魔かもしれない。

なんで、そんなことを考えてしまうかっていうと、ようするに段ボールのデザインというのは、「ポップ」という事態そのものに繋がっているのであって、それ、すなわち「ポップ」という事象が昨今、どう”しょーもない”ものに思われようが、かつて多くの人が無条件で憧れていたアメリカ文化の「良さ」を象徴するモノである(あった)ということが、たしかなことだろうからだ。写真の段ボールは実はニュージーランド製なんだが、その表象パターンがアメリカ的であることは明白で、この際に重要なことは、国産段ボールと洋モノ段ボールを比較したとき、洋モノのほうが断然にこまかいことに煩わされず、カラッと突き抜けてる感じがすることだろう。人はその感覚に魅了され憧れたわけなのだ。

スーパーに行ったときに、なんで日本のレジの店員って、対応がやたらと丁寧で、いちいち恐縮していて、なんでそんなに「まじ」なんだろう?といつも感じる。私はそんなに旅人(たびにん)ではないが、イギリス行っても、イタリア行っても、ハワイ行っても、店員というのは、みんなリラックスしてるよ、ぶっきらぼうだよ、で、べつに無礼とも思わないわけだ、こっちも。楽でいい。一所懸命やらせていただいております、と青筋たてられても、こっちに噛み合う回路がなくて、「・・・・・」になってしまう。
で、あるいは「向こう」で食料品屋で、なんかパイの類を買うとする。薄い紙袋に放り込んで終わりだ。日本だと、黙ってると、ビニール袋に入れて、きゅっと縛り、それをさらに紙袋に入れて、さらには手提げのビニール袋にまで入れてくれかねない。こっちは歩きながら食べたいんだっつの!(笑)
それから、クッキーとかビスケットとか煎餅とか、いちいち個別包装しないでくれっつの、と。資源の無駄。大量生産と日本伝統の「包み/礼」に対するこだわりが合体したかたちっていうのは、非常に無駄が出ると思うんだけど。本にまで「帯」締めるなよってのもあるし。CDまでが帯締めちゃって、もー変。ついでに言わせて貰うと、街に”のぼり”が多すぎ。戦国時代か?それから、デパートなんかで、各店がおもいおもいに違う音楽大音量でかけるもんだから、ただでさえビジーな音がぐじゃぐじゃに混じって、いるだけで気がヘンになる。なんで平気なんだ?頭おかしすぎ。

そんなこんなの、日本の過剰親切/包装/放送と段ボールのデザインのヌケの悪さっていうのは、繋がっているように思える。そんなとこきっちりしなくていいよ!!!っていうとこに限って、嫌になるくらい丁寧にこだわってあって、お願いだからまともに取り組んでくださいというところが、ないがしろになっている、と。そういうことが社会全般的に見受けられる、と。ともかく公共性や合理性より仕事の「肌理の細かさ」や、対する「根性/情念」を評価/重視する日本風土、で、いっぽうアメリカ型のぶっきらぼう合理性信仰が全般的に無条件に○かというと、全然そうじゃないし、かと思えば「根性/情念」評価の反動でいきなり「無(虚無)」になっちゃったり、「いい加減」てのがなかなかなくて、疲れる。

「ポップ(アート)」っていうのはアメリカ型大量生産/消費における「疎外解消」の形式だと思うのだけど、それはウォーホル以降、美学として浸透し、延々と再生産され続けている。端的に「アート」としてのポップと「商品」としてのポップとの見分けというのはつきにくい。だって「アート」=「商品」というのがポップのコンセプトなんだから。その20世紀の代表的美学としての、もはや美学としてすら意識されないポップの末期的状態を私達は生きている。9.11で”ポップ”は終わったという説もある(というか、私の説。私はそう思っている)。終わってるのだけど「ポップは急に止まれない」。急に止まれないポップとどう係わるかが、問題なのだ。

可能性としてあるのは、モダニズム/ポップの美学を咀嚼消化した世代による、インディペンデントな、モダンオルタナティヴ/オルタナティヴモダンというべき、行き方だろうか?カタカナばっかり?自主/独立的・近代的代替案/代替的近代?よけいわかんない?
ようするにモダンの試金石に磨かれたオルタナティヴ、オルタナティヴという試金石に耐えうる近代性?

まあ、段ボールというのは、役割を終えてもいろいろ使い道があるし、そのいろいろのデザインを見るのが楽しくて、私は好きで、そのへんの愛着をめぐって、いろいろ考えてみたと言う話でした。
| 考え | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) |