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Wolfgang Tillmans/Freischwimmer


1.
長い間放置していた本の企画の、改めての打ち合わせのために王子まで出向く。編集者と話し合ううちに方向性が急にまとまり、仕切直し。とりあえず気が楽になったところで(たいへんなのは、これからなのだけど)、新宿に足を伸ばし、期間終了間近のヴォルフガング・ティルマンス展を見に行く。夕方4時すぎという中途半端な時間もよかったのか、思い切り空いていて、ここのところずっと気違い沙汰のように混んでる展覧会ばっかり観てきたので、ふと正気に還ったような気分でゆっくりと楽しむ。

ティルマンスについては、ここでよく取りあげられていて、その都度「ふーん」という感じで気にしていたのだけど、展覧会に行こうという気になったのは、このまえ東京現代美術館の図書室で、その写真集を見ていて、あっと思うことがあったから。どういうことかというと、90年代のイギリスのクラブカルチャーをある意味象徴するような「i-D」という(その筋では有名な)雑誌があって、92年にしばらくロンドンに滞在していたとき毎月のように買っていたその「i-D」のなかにひときわ印象にのこる写真があり、それ故に雑誌をずっと捨てずにとってあった、それがティルマンスの写真だったと言うことが判明したのだ。ちなみにそれはロンドン郊外で行われたゲイ・フェスティバルのフォトレポート(冒頭の画像)なのだった。

1968年、ドイツ生まれ、主にロンドンをベースに活動してきたティルマンス。世代的にも近いと言えば近いし(自分より「6歳年下」は遠いと言えば遠いが)、80年代後半から90年代にかけてピークを迎えたDJリミックスカルチャー、端的にロンドンのクラブシーンの現場に私も80年代半ばからたびたび接してきて、その味を知らないわけでもないからには、親近感があって当然なのかもしれないと思う。けれども今回観て、このフォトグラファー、クラブカルチャーに自閉した単なるモード野郎ではない、というのは明らかだった。

いわゆるモードノリのアートにありがちなヘタウマ表現、いいのは雰囲気だけ(中身なし)みたいなところからすれば、ティルマンスの表現力は---たしかに見た目的には「ヘタウマ」的なのだが---話にならないくらいずば抜けているとおもう。写真一点一点に説得力がある(つまりいちいち面白い)うえにインスタレーションのセンスが非常に見事に洗練されている。むしろ逆に古典的とすら思える写真の美しさに、ティルマンスなんてメジャーもいいとこで全然過激じゃないみたいな最前衛の見解がありえるのかもしれない。でも、そんなに先を急いでもしょうがない。私にとっては十分刺激的で新鮮であり、納得のゆく展覧会だった。
タイトルのFreischwimmerとは英語で言えば「free swimmer 」=自由に泳ぐ人、という意味らしい。同時にドイツ語で「はじめての水泳のテスト」という意味もあるそうだ。いいタイトルだと思う。
そこにあるのは、「所有」という重力から解き放たれた、しかし糸の切れた凧のようになすがままに漂っていくわけでもない、ある手応えを持った遊泳(浮遊とは微妙に違う)の感覚。あるいはそのナビゲーション的な感覚。
非常に絵画的としかいいようのない、色彩とフォルムの妙、愉楽。遠/近の奇妙な結合と剥き出しの質感。具象写真における抽象性と、逆に抽象写真における具体性。


2.
写真というと、嫌でも思い出してしまうのが、あまりにも有名な(「その筋」で)ロラン・バルトの写真論「明るい部屋」のなかで論じられている”ストゥディウム”と”プントゥクム”の概念で、要約すれば、一枚の写真におけるストゥディウムとは=一般的/道徳的/文化教養的関心の領域であり、一方プントゥクムとは=そのストゥディウムを突き刺し、攪乱するもの、すなわち、写真の教養的読解からはずれて存在する写真のなかの特殊、小さなしみや傷、綻びのような部分であり、それが写真の面白さの「ツボ」なのだ、と。具体的に言うなら、例えば一枚の「家族のスナップ写真」において、そこに読み解かれる「家族の絆」というような常識的な主題が「ストゥディウム」であるとするなら、そこにおける「プントゥクム」とは、その写真の背景にたまたま映ってしまったオジサンの髪型が「ビミョーにヘン」みたいな、そういうところに写真の面白さがあるのだ、と、「現代思想」的には、それを「わからない」とは「言わせない」というほどわかりやすい話で、私は20代のときにその本を読んで、写真への考え方にかぎらず多大な影響を受けてしまった。

しかし、90年代以降の---私はそれを真剣にフォローしてきたわけではないが---
「ヘタウマ写真」の流行からすれば、一見してもう「ストゥディウム/プントゥクム」という概念図式自体成り立たないようにも思えてしまう。つまり単純に、すでにそれ自体が一般的関心を攪乱するプントゥクムである、と。ほとんどそれ自体がプントゥクムであるという事態において、そのかつての写真におけるストゥディウムの支配に代わって、プントゥクムによる支配という事態がおきる。そこにおける支配言語/コードを攪乱する「特殊性」とは、逆にストゥディウム(一般的な了解)のほうなのではないか?と。ようするにポストモダニティ(脱近代性=非理性的傾向の優位)という支配コードにあっては、”マイナー”であるのは、理性的傾向のほうで、マンガで喩えるなら、60年代の「文化革命」に添い、隆盛を極めたギャグマンガ、あるいは80年代の不条理マンガが、今日、その存在意義をなくしているとすればそれは、いわゆる「体制」のほうが、「どうしてブッシュとそんなに仲がいいのですか?→彼とは波長が合うんです(by コイズミ)」みたいに、「現実」がそのまま、笑えないギャグマンガ/不条理マンガと化しているからにほかならず、かつての「反体制/ポストモダンニューエイジ」の語法が、今日、そのまんま「体制的/一般的」な語法として誤用転換(御用転換?)されているということがある。現実がそもそも、うんざりするほどという次元もとっくに超えて「お笑い」的であり、「谷岡ヤスジ」的であり、「吉田戦車」的なのだ。糠に釘というより、糠に糠状態なのであって、端的に「効かない」と。
おなじみの「ウヨ/サヨ」の図式における、従来の保守/革新の性質の役割反転というのもそこにつながってゆくのだろう。実に微妙な問題ではある。

3.
逆にストゥディウム(一般性)がプントゥクム(特殊性)として顕れている写真。ティルマンスの名には、「マ/テ/ィ/ス」(マティス)が隠されているというのは冗談ぽいが、しかし冗談ではなく、私はその写真/作品世界にマティスを感じる。窓、果物、植物の扱い、遠近感の攪乱、ポートレートにおける人物表現の直截性、あるいはヴォリュームを伴った平面性、職人性の否定、まさに「プロセスとヴァリエーション」における明晰かつ感覚的な方法論、etc、、、
ティルマンスをティルマンスたらしめているのは、クラブカルチャー、あるいはユースカルチャーの「コミュニティ写真」すなわち「ポストモダンの楽屋落ち」の世界から踏み出して、というか、その世界の背後に「モダン/モダンアート」を「恥部」として隠蔽してしまうのではなく、再解釈し、「独立」の基盤として大切にしつつ超えるという誠実さと意志においてなのだと思う。つまりそれこそが「ポストモダン」と呼ばれるべきものであって、それは子供じみた「モダン」の否定ではなく、その自らが拠って立つ場所の冷静な認識評価によって、受け継ぐべき基本的な問題と、受け継ぐ必要のない、使いモノにならない旧弊/悪弊とを、厳密慎重に選り分けながら、リノベーション、リフォームしてゆくそのやり方の明晰さにかかっている。つまり「モダン」なんてまるごとダメだといいいながら、その「モダンの掌のうえ」で、デタラメやっているような青臭い世界ではないのだ、ティルマンスのそれは。

ティルマンスの写真を見ていると、バカみたいな話だが、実際つくづくと「ポストモダン」ということを感じる。とりもなおさず確固とした実際の住環境におけるモダン、その遺産のいいかんじに角の取れた土台の上で、たとえばだらしなく脱ぎかけられたカーゴパンツが魅力的なフォルムを見せている。その魅力的なだらしなさ/流動性という主調=ストゥディウムにおけるプントゥクムたる直線的かつ丸みを帯びたモダンが背景として存在する。つまりプントゥクムのオールオーバー。

ポストモダンにおいては「特殊」が「普遍」である、というのはつまり「近代性」において「特殊事態/異物」として抑圧されてきた「性/自然/身体性」の解放こそがポストモダンの常態、基本であって、その、それ自体はきわめてまっとうな流れにおいて、こんどは価値の一般性の抑圧という逆差別が往々にして起こってくる。たとえば、ゲイのコミュニティにおいては、ヘテロセクシュアル(異性愛者)が「変態」になってしまうというようなことである。あるいはアートのマルチカルチュラリズム(多元文化主義)において、印象派の絵画が、「アート」の名において、まさかそんなもの好きなわけないよね?というような特殊事例として取り扱われる。これは冗談ではない。芸術と言ったら印象派の絵画以外にないような世界の目前にちょうど、ものごとの価値が逆転して映ってしまうような「逆さ鏡」のように、アートの名において、「セザンヌ?誰それ?」という世界が向かい合わせになっている。向かい合いつつも、言葉が通じないのだ。面白いことにと言うか、困ったことに。ルネサンス-印象派という近代絵画の世界なくして、そもそもアートなどという言葉はあり得ない。また逆に西欧文明圏における「他者」の存在なくして、ルネサンスもヘチマもない。だいたいが、ルネサンスが「復興」したと言われる古代ギリシャの文明は、ビザンチン・イスラムという非西欧世界によって保持され継承発展が為されたものなのだ。しかしまた、そのルネサンスを契機に「アート」の在り方を磨き上げていった西欧文明圏における制作の実質を等閑視するわけにはいかない、というように、お互いがお互いの尻尾を銜えた「ウロボロスの蛇」として、アートの「主体/他者」の問題はある。そこに言葉など通じる必要はない、そうして互いが相手の尻尾を噛みながら、世界はぐるぐると回ってくのだ、ダイナミックに。という見解もあると思うが、通じ合ったほうが断然世界は面白くなると私は思う。

見るところ、ティルマンスというアーティストはこの「ウロボロスの蛇問題」に非常に自覚的であるように思える。彼は属さない。印象派の世界にも非・印象派の世界にも属さない。属するのでなく、泳ぎまわる。地球を覆う色々の名が付けられた海は、実はひとつである。だがその名をつけられた諸々の「海」の溶け合う違いを、乱暴に否定することもしない。

カタログ解説に拠れば、テーマのカテゴライズにおいて、ティルマンスは、またその下へ、さらに下へとツリー状にいくつかの主題を設定してゆき、そこで主題同士が浸透しあい、溶け合うことを許すのだという。

「そこには「人々/静物/構造/写真的なもの」と大別された4つのカテゴリーがあり、それぞれの中にはグループが全部で14(例えば「人々」の中には「セルフ/友人/座像/群衆・見知らぬ人/収集」)、さらに各グループの中には細分化された主題(「セルフ」の中では「セルフ・ポートレート/シナリオ・ステージ/ヌード」)がある。・・・・(カタログから引用)

はじめからカテゴリー、ジャンルを否定するのではなく、ツリー状の構造がリゾーム化するのを待つといった風だ。あたかも「浸透圧」によって、混じり合う要素がどんなフォルムを形成するのかを観察するかのように。
カテゴリーというと、「整理好きのドイツ人」という一種の偏見というかステレオタイプが思い浮かぶわけだが(「カテゴリー」の概念自体がドイツの哲学者、カントを思わせもする)、なんにせよティルマンスの方法論は非常にクールだと思う。しかしまた写真の本質を言いあてるに「かつてそこにあった」(不在の証)というロラン・バルト流のセンチメンタリズム、ロマンティシズムの気配も濃厚で、その湿り気と乾いた数学的知性のブレンドが絶妙なところが広く共感を呼び覚ます秘密であるかも知れない。



ずっと観ているあいだじゅう、絵画的ということが頭から離れなかった。写真の見てくれが絵画的であるというより、絵を描く一番有効な手段として写真をやっているような感じを受けた。普通、写真における絵画的な行き方というのは、実は当の「絵画」というものに対する遡及を欠いている(つまり疑いがない)のが常で、しかしティルマンスの場合、ほんとうに画家のように絵を思考しながら、写真を撮っているという感じだ。マティスを感じると言ったが、ちょうど20世紀の前半にマティスが直面していたような問題を写真でやってきたともいえそうだ。あるいはティルマンスの近作である抽象写真は、カタログで見るとカラーフィールド・ペインティングそのままで、それが会場で直に見れば、剥き出しのただのペラペラの(ときに巨大な)プリントであることの意味に、なにげに強烈なものがある。絵描きとしては動揺するのだ。と同時にひどく刺激され、勇気づけられるものがある。ティルマンスの写真/絵画、抽象/具象におけるアート=芸術のコンテクストへの波及は実際問題として相当面白いものを孕んでいるのではないかと思う。

| 展覧会 | 02:29 | comments(0) | trackbacks(0) |