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アニメ、アニマ、アニムス


前段で(いささか興奮気味に)触れたW・マッケイのアニメーションを観ていて、フロイトというよりは、むしろユングだなと思ったのだった。

ここでそのアニメの内容を辿ってみる。

●はじめにピエロというかアルルカンというか芸人(トリックスター的な存在)が出てきて、また別のトリックスター(チビクロ/黒人-ハリウッド的な典型的な解釈の)を生む。

●二人がダンスするように戯れながら、そこにニモ(王子/小公子)が現れる。トリックスターたちがその両脇で自在に伸縮を繰り返す。

●そして”王子”は手に取った魔法の杖(?)で”王女”を描き出し、大きな花を捧げる。するとドラゴンが現れ、口を開けて二人を乗せ、二人は帽子と花を振りながら別れの挨拶をし、ドラゴンは後ろ姿を見せてのっしのっしと去って行く。

●と同時に再び車に乗ったトリックスター二人が現れ、その車は爆発する。最後に司会者あるいは支配人とおぼしき男が出てきたところに、上からトリックスター二人が落っこちてきて、下敷きになる。

●落っこちてきた二人が立ち上がるところで、画面が引き、その「絵」を持った指が映って夢から覚めるがごとしのエンディングとなる。

なんとも「空間的」であり、ファンタジックとしか言い様のない、深い奥行きを意識させるキャラクターの滑らかにこってりと有機的かつ夢幻的な動きは、ディズニーに代表されるアメリカ製(欧米産)アニメーションのいかにも「元型」という感じがする。
それはそれとして、内容がまさにこれってユングじゃないの?と。王子、王女、トリックスター(秩序を攪乱する悪戯者)、ドラゴンとくればこれはもう。



それでユングといえば、フロイトに学び、神話や民話(おとぎ話)に着目して「元型」「集合的無意識」「アニマ」(男性における裡に抱いた女性の元型像)「アニムス」(女性における男性の元型像)といった概念を創出し、その「アニマ」と「アニムス」のバランス統合を人格統合の鍵として提唱した、分析心理学の祖でありフロイトと並び称されることの多い有名な学者であるわけだが、そういえば、アニメとアニマってモロに繋がりそうだ、と。(いや、これは誰でも思いつくようなことだと思うのだけれど)

アニマ(anima)の原義はラテン語で「魂」のことらしい。すると、アニメーションanimationというのは「魂化」ということ?

まあ、「魂化」といったところで意味不明なんだが、「魂の動態化」「動態の魂化」とでも無理矢理解釈すれば、なんとなはなし、納得してしまえるものがある。すると、「夢」-「アニメ」-「アニマ(魂)」という数珠繋ぎもきれいに連なるではないか。魂の故郷としての夢=アニメ。アニメは集合的(普遍的)無意識を易々と刺激する、というよりそれ自体の現前化のことなのか、アニメーションとは。

だいたいにおいて、フロイトを父性的とするなら、ユングは母性的、前者がハイカルチャー/ファインアート的とするなら、ユングはいかにもサブカル系/コミック系という共通認識のようなものがあると思う。ユングは「禅」や「タオ」や「マンダラ」そして「空飛ぶ円盤」に傾倒して、そんなわけでなにかとアカデミズム筋から小馬鹿にされてきた存在でもある。いわばユングはファンタジックであり、ビートニクから60年代フラワームーブメント/サイケデリックムーブメントへの素地を用意した重要人物のひとりという感がある。メスカリンを服用してドローイングを描いたアンリ・ミショー、そしてオルダス・ハクスリーと並んで。

もうひとつ気になることがある。ユングは大学勤務や研究所の設立においてチューリヒと非常に係わりの深い人だったようだが、「ダダの揺籠としてのチューリヒ」との関連性はどうか?
帝国主義の飽和によって非常にきな臭い状況に陥っていったヨーロッパの、知識人/文化人たちのハイブローな避難所、疎開地としてのチューリヒ、そこでのダダの誕生とユングの無意識の研究、そしてアメリカでのアニメの創成というのはまさに共時的である。

20世紀初頭西欧世界の怒濤のようなモダニズムの開闢とそこにおける「精神世界」のありよう、重ねるなら、モンドリアンと神智学(クリシュナムルティを見いだしたブラバツキー夫人率いるインド色濃い神秘主義サークル)、その神智学の流れをひくシュタイナーとカンディンスキー/クレーの関係。ついでにいえば、時代は下るがそのモンドリアンがニューヨークでの禁欲的な抽象探究において、逆説的に、ディズニーのミッキーマウスを眺めることに慰めを見いだしていたという逸話もある。

言えることはアニメの誕生が未来派やダダやフロイトやユングに直接的に「影響をうけたもの」でないことはたしかだろうということ、むしろダダやユングの「無意識」において「コミック/アニメーション」が蠢いてあり、逆に「コミック/アニメーション」の「無意識」にダダやユングが横たわり蠢いていたのではなかったか、というふうに感じられる。シュルレアリスムはそうした状況のなかから、遅れてなかば確信犯的に出てきたものではないかという気すらするのだった。

そこでまたウォーホルの”アメリカではシュルレアリスムは意味がない、だってディズニー映画があるから”なのだが、日本ではどうか。
江戸から明治へのあまりにも過激な”シュール”な展開。

”浮世絵ショック”とうりふたつの20世紀末から21世紀初頭の”MANGAブーム”を重ねながら、”それ自体シュールな国、日本”ということについて考えさせられることはひどく多い。

一方でアメリカ20世紀中葉、ジャクソン・ポロックが「元型イメージ」に着目し、ユング派の心理分析(セラピー)を受けていたのは有名な話だし、抽象表現主義はシュルレアリスムをぬきに語り得ない(あるいはアメリカン・ダダとしてのポップ)、というあたりも、再びぼちぼちと探っていきたい。

(つづく)
#といいつつ微妙に論点がずれていきつつ、結局はそのうちにまた噛み合うという思考のポリリズム/シンコペーション展開と思って頂けたら、、、。
| 考え | 07:03 | comments(10) | trackbacks(3) |