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L i v i n i t y<living x unity>
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2005.02.25 Friday
最終回のおしらせ
唐突ですが、誠に勝手ながら今回をもって当ブログ、最終回となります。 端的に、このままこの密度でブログ書きを続けると生活が成り立たなくなる/いくつかの現実的な計画が実現にいたらない、という理由からです。どっぷりと集中したいものごとがいくつかあるのです。 まあ、逆にブログは薄口で淡々と、という手もあるのですが、ハマりやすい&執拗な体質なんで開けてる限りつい濃厚に行きたくなってしまう。スパッと切る次第です。 思えば去年の8月25日からはじめたこのブログ、ちょうど半年目です。前回が100番目のエントリーで、今回は101。どうせなら101匹わんちゃんで、、というのは意味不明ですが、終わるにはキリがいい。除夜の鐘式に煩悩百八つまでやってもいいかなんて思ったりもしたけれど、悠長にやってられない、いま待ったなしのとこなのでした。 最初はおっかなびっくりで、ブログというものに関わってみて半年、欲をいえばきりがないのですが、すくなくともアタマの地均しは出来たようにおもいます。お陰様でいろいろと勉強になりました。 まとめというわけでもないですが、前回のマンガ論の〆にまた新たに深い示唆に富んだコメントを頂いたので、そこに絡めて、最後にふたことみこと。 結局の所、このブログで考え続けてきたことはといえば、ひとこと”芸術/文化”をめぐっての様々な問題であったわけですが、そこで19世紀/明治をひとつの基点として、それ以前のありようと来歴、またそれ以後のありよう、日本近代のうちにある捻れとコンフリクトを読み解いてゆく作業でもありました。 やはり焦点として今日の高度情報化の、とてつもなく錯綜した(末期的/末世的ともいえる)状況における芸術/文化なるものの行く末、ということになってきます。それは見物を決め込めるような対岸の火事では全くなく、現に手中にあるものを、どう育てていくか、顔つき合わせているものとどうつき合っていくかという「待ったなし」の問題に他ならない。 逆にいえば、このホリエモンな時代において、いまだ芸術とか文化とかいう「近代」の遺制に拘っているのは、おかしいんじゃないか?という見解がありえます。コンピュータ、経済、芸能、スポーツ、つまりお金とパソコンとエンターテイメント(サービス)があれば、別にいいじゃん、芸術とか文化とか重苦しいこと言わなくたって、と。ま、それはそれでいいとしかいいようがない。と同時にそれは似非芸術/似非文化に対する、試金石/ふるいともなるわけです。大衆化/情報化/シニシズムの極まりに置かれたとき、すごすご引き下がるしかないようなもの(芸術/文化)は、由来(依って来るところ)がどうであれなんであれ似非であると。考え抜かれていない、やり抜かれていない、そんなものはとくに擁護するに足らない。顔洗って出直すしかないわけです。そういう厳しい峻別の時代なわけです。 スーパーフラットとは、全員集合ならぬ全員平等(全部平等)という言ってみれば汎神論の極みであるわけですが、旧秩序が軒並み覆されていく中でのあらたなヒエラルキー形成/階級格差の問題というのは見過ごされがちで、「フラット」という言葉に誤魔化される所でもあると思います。 ようするに市場の原理によって、ありとあらゆる異質が、まるでiPodに放り込まれた曲-ファイルのごとくシャッフルされ、めまぐるしい異種遭遇にさらされるわけですが、それを凄まじく便利でスマートな絶望的な最終地点であると観るか、通過地点/プロセスとして観るかで、大きく物事は変わってくると思います。私はプロセスとして観ています。「情報化」の問題は「光」「多次元」の問題におおいに関わると私は観ますが、その探究はいまだ端緒についたばかりではないでしょうか。 20世紀初頭に学術/芸術エリートたちが問題にしていたことを21世紀初頭ではハイテクノロジーの恩恵でフツーに取り組んでいるともおそらくは言え、その「フツー」における「無意識」が逆に問題なわけです。ハイテクノロジーのスーパーフラットな外観に惑わされて、それが生身においては非人道性極まる過酷な格差/差別/偏見として現れていることに気づかなければならない。 蕩尽伝説さんのほうで、先日「古典の揚棄」という問題が提出されました。そしてコメント欄にて「かまくら 安」さんのほうから、孫次郎の能面と四谷シモンの人形が呈示されました。そこには一見して芸術としての完成度、美の峻厳という意味で、古典を凌ぐモノを作り出すことは現代人には能わない(のだろうか?)という問題があります。 「能」の世界の分析は、ここではやりようがないですが(そもそもその能に関する教養もないので)、今の時点で私に言えることは「古典の揚棄」という問題に際しては「多次元」の混淆の質の問題、「光」に対置され「闇」と呼ばれているもの、つまりは物質性、「元素」的な力の問題こそが極めて重要になってくるのではないかということです。あるいは「間」や「魔」ということ。逆向きに言うと、情報/光/多次元の問題に際しては、日本のであれ、西欧のであれ、「古典」それを成り立たせている材質(樹液、鉱物、植物繊維、等々)、宇宙観/身体性への眼差しがひどく重要になってくるのではないかということです。あるいはリズム/文様、アフリカ的なものへの。手短に言いすぎですが、また始まってしまうので(笑)。 そんなところです。 livinityにおつきあい頂いた皆様、本当にありがとうございました。 時期が来たら、またなにかしらオンライン上でやるかもしれません。 それでは、ごきげんよう。 #しばらくはこのブログはアーカイヴとして残しておきます。 |